東海道を歩く 17 豊明~鳴海~有松~宮(熱田) 221203
12月に入りましたが、まだまだ暖かく、豊明駅から名古屋まで目指すことにしました
夜は、昔の知り合いの豊橋のNさんの家へ 旧知の仲間やお世話になった人たちに会いに行くのもこの旅の楽しみです
8:16 阿野一里塚 道の両側に一里塚が原型をとどめている 国指定史跡
8:52 中京競馬場前駅 朝から、人・馬(の車)が続々競馬場方向へやってくる
競走馬をのせたバスが次から次へとやってくる
12月3日(土)重賞レースでもあるのかな 朝早くから馬も大変である
9:07 桶狭間古戦場跡 戦死者は2500名という
この辺は知立宿と鳴海宿の間で人家の無い荒地だったという
東海道を歩く人々にとっては、少し怖い場所かも
9:11 今川治部大輔義元の墓
1560年5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている
9:30 有松宿 知立宿と鳴海宿の間の宿 町並みが良く残っている
電柱もなく、保存地域になっている
かつては盗賊がのさばる荒地 ここを整えようと尾張藩が移住者を募って生まれた宿
鳴海との距離が近いので、普通の商売では発展が望めないと絞り染めの手ぬぐいを売り出した
その後、絞り染めは尾張藩の保護を受け、有松絞として名産品となった。
江戸後期の大火で町は一度ほぼ消失。そのあと防火に力を入れた造りで現在に残る街並みが作られた 瓦葺屋根、塗籠(木造の柱を漆喰で塗り込む)、隣家との間の「ウダツ」土蔵造りの蔵など、
有松の東海道沿いの町並みは、国から「重要伝統的建造物群保存地区」「日本遺産」に選定
笠をあげて、有松絞の反物をチラと見る女性
そういえば、以前名古屋営業所で仕事をしていたころは、毎日が旅のような営業車でのルート営業。豊田・岡崎・豊橋・浜松……。疲れ果て、休みの時は部屋の中で模型のジオラマ造りに熱中。
あまり周辺の観光もしていなかったけど、有松は電車で行ったかも
有松の街道をあるく
9:42 有松一里塚
10:04 鳴海の町並み かつては海辺だった 等高線に沿って、東海道はカーブを描きながら進む
数か所の桝形・曲がり角がある 水田地帯と丘の際(きわ)が道となっていた
10:34 天白橋(天白川)
江戸時代 この水田(湿地)帯を抜けると小高い場所に笠寺や、集落があった
名古屋市街に入って、都市感が増してきている
10:49 笠寺一里塚 榎の一里塚
10:49 笠寺一里塚
11:00 笠寺観音 芭蕉の「笠寺やもらぬ岩屋も春の雨」春雨塚あり
11:09 笠寺 おもかる地蔵(抱き地蔵)
ちいさなお地蔵様たちです。お願いごとを心に思いながら、身をかがめて、そっとお地蔵様を抱き上げてお参りします。 続けてお参りするうちに、願いによって腕に感じる重みの違いが感じ取れるはずです。 仕事や受験、恋愛に限らず、色々な事をお尋ねしながら、静かに抱き上げましょう。
とのこと
名鉄線本笠寺駅西側の踏切
11:31 清水稲荷 紅葉が美しい
11:41 熊野三社 宿駅制度制定400年記念碑 鎌倉街道が東海道と交差する呼続(よびつぎ)
12:04 珈琲店マドンナ 名古屋の喫茶店名物 「アンバタートースト」でゆったりランチ
ほっとするお店でした
地蔵尊前で今度はJR東海道線
12:53 熱田橋 すぐ右側は、国道1号線 名古屋の道らしくビュンビュン車が走ってる
13:00 「旧東海道」の街路灯の看板がうれしい
前後して、親子連れが歩いていて、対抗心を燃やして足早になったが、
そのグループは熱田神宮近くの有名なうなぎ屋さんを目指していただけでした
名古屋は、一色といううなぎの産地をひかえており、うなぎ屋さんが繫盛している
13:10 七里の渡し場(熱田湊跡)時の鐘
13:18 ここから七里 約4時間の桑名への船旅となる
小旅行や、伊勢参拝の庶民も行きかいにぎわった
ちなみに、庶民の乗る帆掛け船は桑名まで1人45文(1125円程度)
荷物一つにつき100文(2000円程度)だったらしい
お金はかかるし、天候によっては危険な舟旅だが、何といっても時間短縮。
4時間の所要時間である。
陸路(佐屋街道)は1日の行程を要した
浜は埋め立てが進み、今は堀川となっている
七里渡船着(宮宿側)『尾張名所図会』 前編 巻4 愛智郡
七里の渡しにおける宮宿側の渡船場の様子
たくさんの商家・旅籠などが並んでいる
七里の渡しの欠航に備え、旅籠が248軒もあった(東海道で最多)
13:57 熱田神宮
宮宿は熱田神宮の門前町 東海道で最も大きな宿場の一つであった
熱田神宮は、境内・境外合わせて9万坪、三種の神器の一つ草薙の御剣をご神体にする大宮である
その昔、ヤマトタケルノミコトが東征の折りに携行していた草薙の御剣だそうです
草薙の御剣
草薙の剣は三種の神器の一つ 日本神話においてスサノオが出雲の国でヤマタノオロチを退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣である
天孫降臨に際し、しばらくは宮中にあったが、畏れ多いということで、形代が作られ、形代を宮中に残し、本来の剣は伊勢神宮に移されたという
ヤマトタケルの東征の際、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは草薙の剣(天叢雲の剣)を授けた
その後、ヤマトタケルは相武国、または駿河国で敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を薙ぎ払い、難を逃れた。これにより難を逃れたためその剣を「草薙の剣」という(静岡・草薙神社もお参りしました)
東征を終え、ヤマトタケルは尾張国で結婚したミヤズヒメの元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神(荒神)を退治しに行ったが、毒にあたり、三重県の鈴鹿山中で亡くなったという。ヒメの元の草薙の剣を呼んで亡くなったという。
その後、ミヤズヒメはヤマトタケルと草薙剣を祀り、これが後の熱田神宮になったという
宮中に残った剣は形代であったが、源平の合戦の際、安徳天皇と共に海中に沈む 朝廷と源氏軍は捜索・加持祈祷を行ったが、結局見つからず、伊勢神宮より献上された剣を「草薙の剣(形代)」とした(ウィキペディアより)
東海道を歩く 17 豊明~鳴海~有松~宮(熱田) 221203:21.5㎞(+5㎞くらいはウロウロ)
その後名鉄で豊橋の旧友Nさん宅を訪ねる
(宿泊は半分戻って岡崎で)
PS:豊橋の旧友 というかデザインの先輩である故Nさんの仕事場
“N〇〇デザインルーム” 昨年お亡くなりになりましたが、
仕事場の建物がそのまま残っていました