東海道を歩く 19 桑名~四日市~石薬師~庄野 221230


年末年始の休みを利用して2泊3日で三重県のコースを歩く
少し離れるが、海辺のホテルに宿泊し、初日の出を見るのも楽しみだ
ずーっと以前、元日は自宅から皇居までの初日の出マラソンをしていたが、
20数年ぶりに新しいことに挑戦だ


9:36 桑名駅 年末帰省の渋滞を警戒して3時ころ家を出たが、途中の東名高速の5台玉突き事故で渋滞を抜けるのに2時間以上かかったので、かなり遅くなってしまった


9:40 三岐鉄道北勢線 西桑名駅
日本では数少なくなった一般的な営業を行う762㎜軌間のナローゲージの鉄道路線の一つである。路線は1914年(大正3年)、現在の西桑名- 楚原間14.5kmに軽便鉄道として開業した。戦時統合などによる運営主体の変更を複数回経て近畿日本鉄道(近鉄)の路線となっていたが、累積赤字により近鉄が廃止の意向を打ち出したため、2003年(平成15年)4月1日から10年間の地元自治体の支援を条件として三岐鉄道が運営を継承した。支援はその後3年毎に更新中
乗りテツとしては、次回ぜひ乗ってみたい (From Wiki)



はまぐり模様の桑名のマンホール


こちらは七里の渡しバージョン


天武天皇社
大海人の御子は壬申の乱の折り、桑名に宿営したという


9:54 立坂神社 桑名は港湾都市として大きく発展 美濃方面の幕府領からの年貢米をはじめ、江戸へ送られる物資の多くがここ桑名に集積。
旅籠120軒は宮宿につぎ、東海道で2番目の多さを誇った
街道沿いのみならず、町は大きく広がっている
徳川三傑・本多忠勝(どうする家康でも活躍中)が桑名城の城主となった
忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、
慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。


安永常夜燈
お掃除中の料亭の女将さんが、気さくに話しかけてくれる
「1日何人も東海道を歩いている人がいますよ」
並行して歩いているせいか、あまり会わないなあと思う
この先、町屋橋・舟着き場跡 名物の安永餅を商う茶屋があった
背が高いのは、対岸からも常夜燈の灯りが目立つようにか


10:14 火の見櫓


10:16 現代の町屋橋 橋を渡って右側の道へ

10:28 旧道の町並み

10:30 縄生一里塚跡(97里)

10:35 近鉄 伊勢朝日駅

だいぶ画質を落としています
近鉄名古屋線 伊勢朝日駅踏切
10:36 ポケットパーク 一休み 向かい側は大きな「東芝三重工場」

10:36 樹齢300年の榎
10:46 浄泉坊 山門の鬼瓦に徳川の三つ葉葵の紋があり、参勤交代でここを通る大名は、
駕籠から降りて一礼していったと伝えられている


10:53 JR 関西本線 朝日駅


10:56 東海道はこちらでござる 指を左側に描いてくれればよいのに…


11:06 多賀神社常夜燈
滋賀県犬上郡多賀町に所在する多賀大社は「お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀さまへは月まいり 」と言われるように人々の信仰を集めてきた
江戸時代以降、庶民が容易に神社 仏閣を巡る旅に出られるようになると、
神社側の布教活動も活発になり、「講」と呼ばれる集団参詣の組織が出来上がった
こちらの常夜燈は、多賀大社の講の人々の寄進で出来上がった、道しるべである


11:08 朝明川 JR鉄橋 山には雪が! 御在所山?
鈴鹿峠はどれだろう


11:10 ここから四日市


11:14 松寺の立場跡
立場とは、宿の途中や、峠などの難所に 休憩施設として設けられたものである。
茶屋や売店が設けられていた。馬や駕籠の交代を行なうこともあった


11:33 西富田踏切 上は三岐鉄道三岐線 下はJR関西線


11:54 富田常夜燈


10:54 薬師寺 忠魂碑


12:09 八幡常夜燈
常夜燈は街道や神社仏閣に設置された石灯籠です
街道では、街灯や、道標としての役割を果たしていました
街道の常夜灯は伊勢参り講や、宿屋連中の寄進により建てられています
この八幡(やわた)常夜灯の設置当時はこの周辺一軒の家もない松並木の寂しい道で
追いはぎが出没したと伝えられています
一方で、東海道中が盛んな頃は、この辺りまで四日市宿の飯盛り女や客引きが迎えに来ていたそう
街道右手には八幡神社のうっそうとした森も広がっていたそうです
暗い、心細い道中、旅人にはありがたい存在の常夜灯であったでしょう


12:16 かわらず(川原津)の松
この辺りは松並木だったが、戦後の道路拡張や、マツクイ虫の被害で姿を消した。
三重県内に残る江戸時代の二本の松の一本


12:37 多度神社


12:39 三ツ谷一里塚跡 99里


12:41 海蔵川
四日市宿は、この先の三滝橋を渡った辺りから始まる。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒があったといわれるが、現在その面影はほとんど残っていない。ただ旧道沿いを丹念に見ていくと古い商家などを見かけることがある。 三滝橋もたもとの「笹井屋」は「日永のなが餅」で知られる老舗。
先へ進むと「道標」が立っているが、この界隈が宿場の中心だった。
国道1号を西へ超えると諏訪神社があり、この辺りで四日市宿が終わる。


12:52 昼食は コンビニラーメン


13:21 中央通り この先は近鉄四日市駅 市役所の近くでもあり、四日市市の中心部である


13:25 四日市浜田小学校


14:09 あすなろう鉄道内部線 泊駅はこちら


14:18 またまた国道1号線に合流


14:25 日永の追分 伊勢神宮への二の鳥居 東海道と伊勢街道の分岐点
日永は旅籠や両替商が立ち並ぶ間の宿で、宿賃が安く、庶民に重宝されたという


14:28 四日市あすなろう鉄道内部線 追分駅
内部川を渡り左の道へ入っていくと、古い家並みが続き杖突坂の上りとなる。
この後国道1号と合流を繰り返し、石薬師宿に入る。


15:09 采女一里塚跡手前で国道1号線と合流 日永方面を振り返る
ここまでの旧道は杖衝坂と呼ばれる急登であった


15:11 采女一里塚跡 101里


15:41 四十四番 石薬師宿 旧道に入る
四日市宿と亀山宿の間が22kmと遠かったため、伝馬制から遅れること15年目に設けられた
もともと宿場の南にある石薬師寺の門前町として開けた街だ。
宿場内には往時の雰囲気をとどめる旧家が何件か残っている。


15:43 佐々木信綱 かるた道
1.8キロの間に信綱かるたの短歌50首が掲示されている


15:49 石薬師宿 小沢本陣
明治に建て替えられた建物だが、往時の宿帳や調度品などの貴重な資料が多数保存されている。


15:49 石薬師宿 小沢本陣


15:52 佐佐木信綱記念館
唱歌「夏は来ぬ」の作詞で有名な国文学者で詩人の佐々木信綱はこの町の出身


15:53 浄福寺


石薬師寺の山門が田んぼのあぜ道の先に見える
石薬師寺は真言宗の名刹 厄除け信仰を集めた
東海道は右から左に通っている。右側は石薬師宿


歌川広重 五十三次名所図会 四十五 石薬師(竪絵東海道)
(Fromみゆネットふじさわ https://www.fujisawa-miyu.net/)
源範頼伝承の「石薬師の蒲ザクラ」
ゴッホ『タンギー爺さん』(From Wiki)にも描かれている


グーグルマップを利用しました
上から石薬師寺山門 蒲冠者範頼の社(御曹司神社) 石薬師の蒲ザクラ

旅を終えて、いろいろ調べてみると、見落としたことも多く、反省
地図を確認すると、上の広重五十三次は今も残る道の左側から石薬師寺・山門を描き、
下の竪絵東海道は蒲ザクラの手前から、蒲冠者範頼の社の2重の鳥居を右端に描いて
石薬師寺・石薬師宿を描いている
蒲冠者・源範頼は昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でファンになったので、
この地にゆかりの蒲(ガマ)サクラ・蒲冠者範頼之社があるのは興味深い
寿永の頃(1182~85年)蒲冠者源範頼が平家追討の軍を率いて西に向かう途中、石薬師寺に戦勝を
祈願し、その際、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと
言われている。 また鞭を地面に逆さに挿したことから「逆桜」とも呼ばれている。
この桜は三重県の天然記念物に指定されている。


16:01 石薬師宿町並み


16:01 町並み


16:04 蒲川橋 石薬師一里塚跡102里


16:06  石薬師一里塚跡 102里 道標


16:28 夕暮れも近い


16:39 四十五番 庄野宿入り口 今日はここまで


19:07 四日市のビジネスホテルに宿泊
12月30日の夜で、帰省や、観光の家族連れも多かったが、
年末年始休業中の工場のメンテナンスに来ている職人さん風の方も多かった
ご苦労様です
ホテルの周辺の食事処が、チェーン店や、その他は遠い所だったので、
ホテル内の居酒屋さんで夕食。商用で訪れている方にはありがたいサービス
広い駐車場がこのころには満車になっていた

桑名~(6.2km)~富田~(8km)~四日市~(8.8km)~石薬師~(4.4km)~庄野入口  合計27.4km 7時間3分

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