東海道を歩く 21 坂下~鈴鹿峠~土山~大野~水口~三雲 230101


いよいよ、令和5年の元旦となった
少し、強行軍で歩けば、東海道もあと3日分
一年の計は元旦にあり! 天気にも恵まれたので、ガンバルゾー!
まずは、海岸線に出て、初日の出を拝むことにする


2023年1月1日 7:07 鈴鹿市白子海岸にて 初日の出
住民の方、観光客で海岸は人が多かった
港の崎の方は断念したが、神々しい朝日を拝むことができた
海から(残念・対岸の知多半島でしたが)の初日の出は初めてなので、テンションも上がる
昨日たまたま見たテレビ番組によると 徳川家康が本能寺の変の際、
堺から伊賀越えをして白子にたどり着き、そこから舟で三河に戻った由
堺から三河へ3日で戻ったという
歴史のエピソードに事欠かない地域ですね

10:00 坂下宿先の1号線の合流部から出発
雪が積もっているかと心配したが、大丈夫だった 天気も上々
1号線は鈴鹿越で、上り、下りはそれぞれ片側2車線の別ルートである
旧東海道は鈴鹿峠から下ってくる道の側道を歩く(強引に登っていく地元の軽四輪あり)
10:11 片山神社入口で林道に入る


10:24 片山神社
鈴鹿峠は、鈴鹿山脈のなかで最も低い位置にある峠で、
古くから畿内から東国への重要なルートであった。
そのため鈴鹿峠では鬼や盗賊に関する伝説が多く残されている。
昔話では坂上田村麻呂と鈴鹿姫がその盗賊をやっつけたとか
片山神社はその2人も祀っている


10:28 鳥居脇の山道を進む 八丁二十七曲がりの急こう配


10:31 芭蕉句碑
「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」
馬の水飲み鉢のそばにある
句意  一念発起して旅に出ようと決心し、初めて越えていくのが鈴鹿の山だ。
出家遁世の初めに、鈴鹿の山を越えて行脚に出たとの意味である。
そういえば、芭蕉は鈴鹿峠の向こう側「伊賀」出身だ


10:39 鏡岩分岐 鈴鹿峠
難所と恐れていたが、あっさり到着


10:39 鈴鹿峠 説明板
伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は二子山と高畑山の鞍部を通っている……

鈴鹿山の鏡岩
縦2.2m×横2m 断層ができる際に強い摩擦力がかかり、
こすられて平らになった部分が鏡のようになった岩
山賊がそこに写った旅人をおそったという

10:44 鈴鹿峠 万人講常夜灯
重さ38トン 高さ5m44cm トンネル工事のため、この地に移された
この向かい側は茶畑 !? ここからなだらかな下りで土山に向かう
東海道は江戸から京は登り坂が急で、下り坂はなだらか
中山道は、江戸から京は登り坂はなだらか、下り坂が急だそうだ


11:12 土山 田村神社
平安時代 坂上の田村麻呂の鈴鹿の鬼退治後、残った矢を放ち、
「矢の落ちたところに私を祀りなさい」といったという伝説あり。
厄除の神、交通安全の神としても崇敬されている


11:42 田村神社で初詣 延々続く行列で、時間がかかった


東海道五十三次内 土山「春の雨」
鈴鹿峠を越えて最初の宿の土山は雨の多い土地だった
四方八方から落ちてくるおびただしい雨
その中をうなだれて歩く大名行列は、田村神社の中の海道橋を渡っている模様
左手は田村神社


12:04 田村神社門前の 道の駅「あいの土山」にて昼食
「忍者そば」 黒米麺と干飯が入っている 軽かった
土山は「甲賀」の領内である


12:19 49番 土山宿 加賀屋
土山宿に人る。通りは静かで、連子格子の町屋が並ぴ、宿場の雰囲気がよく残された町並みである


12:22 上島鬼貫の句碑


12:36 問屋場跡


12:37 土山家本陣 土山の本陣2軒のうちの一つ(旅籠44軒)
甲賀武士・土山鹿之助の末裔が初代当主を務め、黒漆喰塗籠の趣のある外観が特徴
現在も子孫が住居として使用しているのは、東海道でも唯一。


13:04 野洲川にかかる歌声橋


13:28 瀧樹神社鳥居
斎王が伊勢に向かう途中、近くの川で禊をしたという


13:28 長泉寺


13:47 大野の東海道松並木 残念ながら4本ほど


13:52 野洲川


14:12 大野の町並み 本来の土山宿の外れではあるが、旅籠が並んでいた


14:14 若王寺


14:36 国道1号を渡るところに大きな石灯籠


14:45 お休み処


14:46 今郷一里塚跡 111里


14:47 浄土寺
この後、岩神社を過ぎて山川稿を渡ると「東見附跡」があり、水口宿に人る。
三代将軍家光が上洛する際の宿館として、水口城が築かれた。作事奉行の一人には、建築や作庭で名砂い小堀遠州も名前を述ねている。 県道549号を越えてしばらく行くと「脇本陣跡」「本陣跡」がある。この辺りから、近江鉄道水口石橋駅あたりまで延ぴる


15:34 50番水口宿 高札場 三筋の道
三筋の道に沿って、旅籠などが軒を連ねていたという
本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠41軒
2004年10月1日に水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町が合併して
甲賀市(こうかし)となった 現在は「甲賀市水口町」となっている


15:42 休憩所 水口祭りの曳山のからくり時計


15:43 今村呉服店
元日ですが、それらしい人通りなし 松飾りのようなものもない


15:53 水口石橋駅 近江鉄道水口・蒲生野線
近江鉄道は、米原駅~八日市駅~貴生川駅を結ぶ


15:55
近江鉄道の歴史は古い 明治22年(1889年)東海道本線と明治23年(1890年)関西鉄道草津駅-四日市駅間が開通した。しかし湖東平野内陸部はルートから外れたため、間を縫うように
彦根-貴生川を結ぶ近江鉄道が旧彦根藩士族と有力近江商人を中心に設立された。
そして明治33年(1900年)開通。戦後は西武グループ(近江出身の堤康次郎氏の縁である)
現在は全線で電気運転 電車はワンマン運転で2両編成
くだけた愛称としては「ガチャコン電車」と呼ばれる


15:55 単線!


16:11 妙沾寺


16:14 美冨久酒造


16:15 柏木神社 源頼朝が上洛の際に鎌倉八幡宮を勧請した神社


16:23 北脇繩手と松並木
東海道が一直線に伸びるこの辺りは江戸時代「北脇繩手」と呼ばれた。繩手(なわて)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない、曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、
見通しのよい道路にしたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々にそうじ場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。


東海道五十三次内 水口「名物干ぴょう」
干ぴょうはユウガオの実をひも状にむいて乾燥させる
水口藩の初代城主が奨励し、水口の名物となった
この絵では母がむき、娘たちが干している
そんな水口宿ののどかな様子が描かれている1枚である
その後、1712年に水口藩藩主だった鳥居忠英が下野の国(栃木県)壬生藩に国替えになった際に
水口からユウガオの種を取り寄せたことが栃木県の干ぴょう生産のはじまりだという
現在では国内産のうち99%以上が栃木県で生産されているが、今も水口の特産品だ


16:26 今日は元旦


16:32 北脇バス停 三雲駅行きバスは1日に2便のみ(平日)土日は1便


16:35 柏木小学校脇 松並木


16:38 柏木公民館


16:58 名残り松


16:59 道標と舞込橋


17:01 泉の一里塚


17:02 泉の一里塚


17:04 横田の渡し跡の冠木門 と大常夜燈
湖南を流れ、琵琶湖に注ぐ野洲川は水口のあたりでは横田川と呼ばれていた
冬の渇水期には土橋が架けられ、それ以外の時期は横田の渡しで通行人を渡していた
支流からの合流もあり、流れが激しく、ところどころに巨岩もあって難所のひとつだった
人の往来が多く、夜中でも渡しが利用されていたので、安全のためと、
対岸からの目印にするために、大きな常夜燈が建てられたのだという
この大常夜燈は文政22年(1822年)に建てられた。高さ10.5mと東海道随一の大きさを誇っている


17:07


17:08


17:28 あっという間に暗くなった
本日1月1日は 東京で日の出6:50 日の入16:38(高島暦参照)
関西との差は20分くらいかな


17:34 JR草津線 三雲駅 次回の出発点を考慮して、ここまで頑張りました

坂下~(1.5km)~鈴鹿峠~(5.8km)~田村神社(土山入口)~(8.9km)~大野~(7km)~水口城~(6.1km)~JR三雲駅  合計29.3km 7時間34分

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